【天才の描写について】森博嗣
天才が登場人物として描写される物語は数あれど、現在のところ私のお気に入りはこちら、森博嗣の作品群。
中でも超長編と言って良いのが以下のシリーズ。
- S&Mシリーズ(10巻)
- Vシリーズ(10巻)
- 百年シリーズ(3巻)
- 四季シリーズ(4巻)
- Gシリーズ(10巻)
- Wシリーズ(10巻)
2019年3月現在、44冊を読み終えている(百年シリーズを除く)。
文章が上手い(と思える)こと、作中“世紀単位”の時間が経過しているにも関わらず矛盾がない(と思える)ことに脱帽するばかり。天才の描き方について考えてみたいと思ってこのエントリーに着手したものの、まずは作者の天才っぷりに目がいってしまう。トリックが工学に寄っているとか言われてもいるようですが、題材やテーマは以下の通り多様。
- お嬢様工学部学生の恋わずらいと過去
- 天才の誕生と成長
- 探偵と怪盗と長者
- 不死の存在
- 科学技術の発展
- 長寿化
- エンジニアの半生
- 人工知能とシンギュラリティ
- 世界人口の減少 etc.
S&Mシリーズの【すべてがFになる】がその発端。いったいどこまで行くのだろう?と思いながら読み進み、気付けば44冊。
映画界では、ナチスやロシアの暗号解読にあたる数学者の末路※1※2、隔離病棟に住まう天才※3や、人工知能になった科学者の暴走※4、万能の法則を探り216桁の数字で破滅する男※5など、天才を扱いバッドエンドで幕を閉じる物語は数あるが、森博嗣のシリーズにそういった暗い影はない、と思う。
※1 イミテーションゲーム
※2 ビューティフル・マインド
※3 シャッターアイランド
※4 トランセンデンス、、、というか人工知能暴走映画はありすぎだよね
※5 π
各映画に登場する天才は、発狂や暴走という症状を示し人間社会に適合しない(負の要素である)ことが多く、それがバットエンドへのエネルギーになっていると思う(ターミネーターのスカイネットとか、バイオハザードのレッドクイーンなんかも、人工知能であるが故に人知を超越した知力を持つにいたった天才として解するとこの範囲に収まる)。
- 自己破壊とも言える発狂
- (再生を目論んだ)人類抹殺計画という暴走
どちらにしても負のエネルギーというか、それをいかに描くのか?というところに躍起になっている気がする。それは発達を続けるテクノロジーに対するカウンターカルチャー的表現手法なのだと思う。
カウンターカルチャーという言葉が纏う空気の通り、もはや古臭い気すらする。
それを承知で触れる分には楽しめるのだけど(水戸黄門的な)、二番煎じ感は否めない。
森博嗣ワールドの場合、そもそもはミステリーなので、中途半端に(?)明晰な頭脳の持ち主が犯罪者と化す場面が多々ある。なので、殺人事件や強盗、窃盗とそれを追う探偵達の苦難、はたまたテロ・戦争とも呼べるようなきな臭い(負の)場面があるものの、一貫して天才は唯一絶対であると思わせるべく筆が走っていく印象が強い。
ストーリーを振り返ってみたところで、作中で繰り広げられている事象が天才の陰謀であると断ずることも出来ず、刑事責任を問えない範囲で蠢いているらしいという存在感のみが残る。
また、天才に翻弄される秀才(準天才というのが正か?)も、前述の映画に登場しようものなら発狂や暴走に至ってしまいそうな頭脳の持ち主なのかと思うのだが、そうはならずに何処か朗らかな雰囲気がある。
それらを巻き込んで、善悪の判断がつけられない状態が見事に構築されていく。
前述の44冊の他にもエッセイや、ドキュメンタリーだろ!と突っ込みたくなるような小説(水柿君シリーズ)も含めて10数冊読了してますが、それらから察するに、この人物はけっこう強烈な正のエネルギーの持ち主なんじゃないかな。
全体を通して、読後感の清々しさというか、各登場人物の潔さというのが実に魅力的。さくさく読めるし(これは相性の問題もあるでしょうが)、読んでいて突っ込み疲れすることもない。
作家家業は引退したよとおっしゃってるのは承知してますが、新しい作品が引き続き読めることを切に願う次第でございます。
Gシリーズのみ、10冊セットが無いのはなぜ?